播磨 鶏籠山城


お城のデータ
所在地 兵庫県たつの市龍野町上霞城
遺 構 曲輪、石垣、土塁、竪堀、堀切
形 式 山城 築城者: 赤松村秀 築城年代: 明応8年


見 ど こ ろ
( 後の城 本丸東面の石垣 )
( 後の城 本丸西面の石垣 )
( 後の城 北の曲輪群の石垣 )
( 後の城 南の曲輪群の石垣 )
 龍野城は、脇坂氏による大修築で山麓に陣屋構えの城となってしまったが、東から南にかけて揖保川が流れ天然の堀となり、急峻な鶏籠山に築かれた中世城郭を築くには最適の要害の地に築かれていた。

 中世龍野城(鶏籠山城)への登城口は、龍野城本丸西奥にある。ここから紅葉谷経由と大手道とに分岐(ここで竪堀が一筋見ることが出来る)していて、「城はともかく大手道を登城するのが正道」と登り出すが、これが結構きつい。喘ぎながら約20分程で二の丸曲輪群の先端部に到着する。

 もう一つの登城道が紅葉谷から両見峠へ。峠まで谷筋を登る道の両側には、家臣の屋敷が段々に設けられていて、屋敷の石垣などが残っている。また、峠付近には番所跡がある。尚、峠から堀切を経て、鶏籠山城へと登城道が通じている。

 鶏籠山城は、大きく分けて「前の城」と「後の城」に分かれ、前の城は赤松氏の築城、後の城は豊臣氏時代に改修された可能性が高いようだ。随所に見られる石垣の遺構も圧倒的に後の城に多く残る。

 「前の城」は城山のピークに二の丸とされる曲輪が置かれ、南に向けて7段の曲輪が配され、先端部には横堀の遺構が構築されている。更に南の斜面には山麓まで掘られた大堀切が2条設けられている。

 「後の城」は、二の丸と鞍部を隔てた鶏籠山(城山)の最高所に本丸を置き、南に4段、北に3段の曲輪連郭式に並べ、北の先端部には堀切を設けた縄張りとなっている。

 「後の城」の本丸は、かつては結構大ぶりの石材を用いた石垣が囲繞していたのであろう。破城により随分崩されているが、南と北に設けられた虎口を守るように櫓台があり、この付近には石垣の遺構が良く残っている。また、北の先端部の曲輪北側にも見事な石垣を見ることができる。 


歴     史
( 前の城 二の丸東面の石積 )
( 前の城 南曲輪群の石積 )
( 前の城 南の曲輪群の土塁 )
( 前の城 南先端部の竪堀 )
 龍野城(鶏籠山城)は、築城年代は諸説があり、明応8年頃に赤松氏を復興した赤松政則の庶子村秀によって築かれたとの説が有力である。

 大永5年、村秀は龍野城にて祖父則貞を殺害した。赤松惣領家義村と守護代浦上村宗との対立が起きた際、則貞が村宗方に与した為に義村方に与した村秀した殺害した事件である。

 龍野の赤松下野守家は、村秀−政秀−広貞−広秀と続く。2代政秀も惣領家赤松晴政を助け、永禄元年に子の赤松義祐に置塩城を追われた晴政を龍野城へと迎え庇護している。

 政秀は惣領家赤松義祐と対立するが、晴政が没した後に和睦する。その後、政秀は独立して惣領家・浦上氏との争うが、永禄12年には浦上宗景に降伏し、元亀元年には毒殺された。

 父政秀・兄広貞が没し、跡を継いだ弟の広秀は、天正5年に秀吉が播磨へと侵攻を開始すると戦わずして龍野城を開城した。広秀は、天正9年に龍野城主となった蜂須賀正勝の与力となる。天正13年に阿波徳島へと移った際、それまでの戦功により但馬竹田城主となっている。

 龍野城は、慶長5年の関ヶ原の戦功により池田輝政が播磨姫路へと入り播磨一国を領すると龍野城は池田氏の持城となる。その後、本多・小笠原・岡部・京極氏と目まぐるしく城主が代わり、万治元年に京極京極高知が讃岐丸亀に移封になると天領となった。

 寛文12年に脇坂安政が信濃飯田より53,000石で入封して、荒廃した龍野城を陣屋構えの城へと大修築した。以後明治まで脇坂氏が城主として代々居城する。


お城へのアクセス
鉄 道: JR姫新線本竜野駅〜バス/龍野橋
 車 : 山陽道龍野IC〜県道29号線〜国道179号線
駐車場: 揖保川龍野橋西詰から西約200mに無料駐車場(30台程度)、
龍野城内の歴史文化資料館の無料駐車場(10台程度)


ひとくち MEMO
紅葉谷〜両見峠〜鶏籠山〜龍野城〜城下町と一日ゆっくりと歩いてみては。

兵庫県のお城
一覧表へ
トップページへ たつの市のHPへ

近畿のお城
滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県