播磨 姫路城


お城のデータ
所在地 兵庫県姫路市本町
遺 構 現存天守、櫓、門、曲輪、石垣、土塁、堀
形 式 平山城 築城者: 赤松貞範 築城年代: 貞和2年


見 ど こ ろ
( 喜斎門付近から見た天守 )
( 菱 の 門 )
( い の 門 )
( は の 門 )
( に の 門 )
( ほの門と水の一門 )
( と の 一門 )
( りの門と太鼓櫓 )
( ぬ の 門 )
 世界文化遺産にも指定されている国宝姫路城。『さすが姫路城』何度訪れても、何時間も眺めていても見飽きることはない。訪れるたびに新しい発見がある。

 姫山にそびえる五層の大天守と3基の小天守、菱の門をはじめ城門、化粧櫓などの櫓の数々、見どころだらけだ。

 石垣の城壁、要所要所に建つ櫓や城門、そして天守。日本のどの城を訪れても見ることの出来ない光景が姫路城にはある。どこの城も規模の差こそあれ、明治の廃城までこのような姿であったのだろう。

 姫路城の特徴の一つに、「攻め寄せる敵にいかに背後を見せさせるか」を工夫した複雑な縄張りが上げられる。

 このことを思いながら菱の門から姫山山頂の天守へと「いの門」〜「ろの門」〜「はの門」〜「にの門」〜「ほの門」と坂道と石段を登る。ふっと、何気なく後を振り返って見ると、そこには必ず城壁や櫓の鉄砲狭間が見える。知らず知らずの間に狙われていたのだ。

 もう一つの工夫が、攻める敵の心理を突いた巧妙な縄張りだ。菱の門から天守を目指して上へ上へと登って来た敵。天守に通じる最後の関門、「水の一門」〜「みずの二門」へと通路は狭く、しかも下っている。勢い付いている敵は、ここが天守に至る通路とは思いづらい。正に心理作戦だ。

 心理作戦となれば陽動や奇襲も必要だろう。菱の門から三国堀沿いに東へ進むと正面には上山里曲輪の高石垣と「リの櫓」が行く手を阻む。攻め手からすれば、まさかここに虎口があるとは思わないだろう。

 そんな攻め手の裏をかくように設けられた虎口が「るの門」だ。この孔門形式の門から出撃して、菱の門から「いの門」へと直進する攻め手を横から攻撃は、まさに奇襲戦そのものだ。

 東からの搦手ルートも見逃せない。喜斎門〜「との四門」〜「との三門」〜「との二門」〜「との一門」を経て東の脇曲輪へと急な石段を登る搦手ルート(現在は通行を禁止となっている)。姫路城内で一番の高石垣とその上に建てられた帯櫓・帯郭櫓、真上から登城路を威圧する姿は本当に見応えがある。

 姫路城の縄張りは、天守の建つ姫山山頂を建つ五層天守と3基の小天守を渡櫓で結んだ連結天守(天守曲輪)を中心に備前丸・二の丸・山里曲輪が一二三段に構築され、三国堀を挟んで西側の鷺山に西の丸配されている。概ね姫路城の内郭部は曲輪群が梯郭式に配され、天守背後には勢隠しを設けて防備を固めている。 

 菱の門より一段下には三の丸が置かれ、内郭の大手が桜門と桐の一門と二門が桝形虎口を形成していた。ここに本多氏以降の城主居館(武蔵野御殿)や藩庁であった向屋敷と米蔵等があった。

 姫路城は、内堀より内の内郭を中心に時計と逆回りに渦巻き状に惣構えの曲輪・堀が配置されている。渦巻き状の縄張りの城は、姫路城と江戸城(時計回り)の2城だけだ。

 JR姫路駅辺りが惣構えの南端に辺り飾磨門が開かれたいた。駅と桜門の中間点、中堀を埋め立てた国道2号線が東西に走っている。そして国道に沿って北側に今も土塁が累々と残り、要所には今も城門の石垣が立派に残っている。

 秀吉築城の三層天守はどうなったのか?

 輝政築城時に秀吉の天守は解体され、小天守や渡櫓の用材に転用されたようだ。特に乾小天守の入母屋破風板や軒唐破風板(大千鳥破風の造り替え)などに秀吉天守の用材であったことが解体修理で確認されている。

 秀吉の三層天守だけでなく、秀吉が置塩城大手門を移築した云われる「との一門」、木下家定の城主時代に作られた「りの門」(慶長4年の墨書が解体修理時に発見された)が残っている。

 また、建物だけでなく三国堀北面の塞ぎ込み部分や上山里曲輪「リの二櫓」下の継ぎ足し石垣などに秀吉時代の城を拡張した痕跡を見ることが出来る。また、本丸・備前丸付近には転用石が数多く見られ、これも秀吉時代の名残だ。 


歴     史
( る の 門 )
( 西の丸 化粧櫓と百間廊下 )
(二の丸乾曲輪 ロの櫓)
( 左から太鼓櫓・帯櫓・帯郭櫓 )
( 上山里曲輪 チの櫓とリの櫓 )
( 西の丸 カの櫓 )
 姫路城は貞和2年に播磨守護赤松則村の次男貞範が、南朝方に備えるために築城した。貞和4年に庄山城へ移り被官小寺頼季を姫路城に置き、以後小寺氏代々の居城となった。

 応仁元年、細川勝元の援助を得て播磨の領国を回復した赤松政則は姫路城を本拠を置いた。文明元年に置塩城へと移り、旧例に従って小寺豊職を姫路城主とした。

 戦国時代になると小寺政隆は永正16年に御着城を築いて移り、天文14年には小寺則職の家老黒田重隆が姫路城に入り、以後重隆−職隆−孝高と三代に渡って黒田氏が在城した。

 天正5年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨で進攻すると黒田職隆・孝高(如水)父子は秀吉に与し、本丸を秀吉の本営として供した。

 天正8年、三木城の別所長治を滅ぼして播磨平定がなり織田信長は播磨を秀吉に与えた。秀吉は黒田孝高を妻鹿城へと移すと、浅野長政に縄張りさせ黒田孝高を普請奉行として修築し、現在の大天守の位置に三層の天守をも設けた。

 天正11年に秀吉は大坂城へと移り弟秀長を姫路城主とした。天正13年に秀長が大和郡山に移ると、北の政所の兄木下家定が入城して25,000石を領した。

 慶長5年、関ヶ原の戦功により徳川家康に女婿でもある池田輝政が、三河吉田から播磨一国52万石を領して姫路に入封する。翌年より輝政は、52万石の太守に相応しい城へと大修築を開始し、慶長14年に大天守を始め一応の完成を見た。

 その後、池田氏は輝政−利隆−光政と3代続く。元和2年に2代利隆が京都で客死し嫡男光政が姫路城主となるが、光政が幼少のため因幡鳥取へと移封となった。

 元和3年、本多忠政が伊勢桑名から15万石で入封する。この時忠政の嫡男忠刻にも新知10万石が与えられた。この10万石が俗に忠刻に嫁いだ『千姫の化粧料』だと呼ばれている。

 本領と嫡男の新知分併せて25万石を領することになった本多忠政は、西の丸と中曲輪の諸門の増築工事を行い、三の丸の居館を整えて今に残る姫路城を完成させた。

 寛永16年に本多政勝は大和郡山へ移り、替わって松平(奥平)忠明が入り、次いで慶安元年に出羽山形より松平(越前)直基が15万石で入った。特に山陽道の要として姫路城を重要視した幕府は、直基が没すると嫡男直矩を越後村上へ移した後、松平(榊原)忠次が陸奥白河より入る。

 その後、松平(越前)・本多・榊原・松平(越前)と譜代の重鎮が目まぐるしく変わる。寛延2年に松平朝矩と入れ替わって酒井忠恭が上野前橋から15万石で入封し、以後酒井氏が10代続いて明治に至った。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陽本線姫路駅〜バス/大手門前
 車 : 山陽道姫路東IC〜播但道花田IC〜国道372号線
駐車場: 桜の門前に有料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
世界文化遺産、朝から夕方まで一日居ても見飽きることのないお城。

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