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( 本丸南西部の石垣と空堀 ) |
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( 本丸下段北側の石垣 ) |
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( 本丸虎口枡形の石垣 ) |
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( 三の丸西側に残る武家屋敷 ) |
島原城は、元和4年に松倉重政によって築かれた。島原城築城以前の島原の地には、永禄6年頃には有馬氏配下の島原純豊が浜の城にあり、この地を治めていた。天正12年の龍造寺隆信による島原半島侵攻時、純豊は龍造寺方に与して浜の城に籠もり、有馬・島津勢が森岳に布陣している。この森岳が島原城の前身とされる。
慶長19年、日野江城主有馬直純が日向延岡へと転封となり、元和2年に松倉重政が大和五条二見から40,000石を領して日野江城へ入った。松倉氏入封までの間、幕府預かりとなり、長崎奉行の管理下で切支丹弾圧が行われた。
日野江城へ入った松倉重政は、日野江城・原城が南に偏って居るため、両城を廃して日野江・原両城を廃城にして、元和4年に島原森岳に築城したのが島原城である。
この島原城築城の苛酷な夫役・重税と切支丹弾圧の結果、重政の子勝家(重治)の時、寛永14年に島原の乱が起こった。この乱の終結後、勝家は責任を問われ切腹し松倉家は断絶となった。
松倉氏改易の後に、遠江浜松より高力忠房が40,000石で入封する。忠房は、島原の乱後の復興とキリシタン弾圧の強化の使命をおびていた。寛文9年、2代高長は暴政を行ったことにより改易され、丹波福知山から松平(深溝)忠房が65,900石で入封する。
寛延2年、松平忠祇が下野宇都宮へ転封となり、入れ替わって戸田忠盈・忠寛と二代居城するが、安永3年に再び戸田・松平氏は入れ替わり、松平忠恕が入って以降松平氏は島原を動く事なく八代続いて忠和の時に明治を迎えた。 |