肥前 島原城


お城のデータ
所在地 長崎県島原市城内1丁目
遺 構 復興天守、模擬櫓、石垣、堀、曲輪
形 式 平城 築城者: 松倉重政 築城年代: 元和4年


見 ど こ ろ
( 天守・巽櫓と本丸東南の石垣 )
( 本丸丑寅櫓と本丸下段の石垣 )
( 本丸南側の帯曲輪と城壁 )
 島原半島の中世城郭を見て歩いてから、この島原城を訪れた。近世城郭とはいかに堅固であったか、いかに築城に資金と住民の労力をつぎ込んだことか。この総石垣造りの新城築城が原因で島原の乱が起きたか、住民の身になれば一揆を起こさ ざるを得なかった気持ちが分かったような気がした。

 島原城は、北川と大手川に挟まれた普賢岳から東へと広がる扇状地の東端部を利用して築かれている。本来、地形を巧みに利用して城は築かれるが、島原城は地形に拘ることなく築かれている。

 その縄張りは、全体的には東西約350m×南北約1200mの長方形をしている。本丸・二の丸・三の丸が南北に直線的に並び、その周囲を外曲輪が囲繞した縄張りとなっている。

 本丸と二の丸は堀に囲まれ、北に向けてのみ虎口が開かれ、本丸と二の丸は廊下橋によって結ばれていた。(現在の本丸へ西から入る虎口と土橋は、後世に観光用に設けられたもの)三の丸は、藩主居館が設けられて、東と南にのみ堀が設けられていた。外曲輪の周囲には堀は構築されていなかった。

 本丸には、破風などの飾りのない五層の塔層式天守が復興されている他に、三層の櫓が2基復興されている。三の丸は、現在では市街地化しているが、この一角に武家屋敷の家並みが残 っている。実際に一般公開されているのは3軒だけだ。


歴     史
( 本丸南西部の石垣と空堀 )
( 本丸下段北側の石垣 )
( 本丸虎口枡形の石垣 )
( 三の丸西側に残る武家屋敷 )
 島原城は、元和4年に松倉重政によって築かれた。島原城築城以前の島原の地には、永禄6年頃には有馬氏配下の島原純豊が浜の城にあり、この地を治めていた。天正12年の龍造寺隆信による島原半島侵攻時、純豊は龍造寺方に与して浜の城に籠もり、有馬・島津勢が森岳に布陣している。この森岳が島原城の前身とされる。

 慶長19年、日野江城主有馬直純が日向延岡へと転封となり、元和2年に松倉重政が大和五条二見から40,000石を領して日野江城へ入った。松倉氏入封までの間、幕府預かりとなり、長崎奉行の管理下で切支丹弾圧が行われた。

 日野江城へ入った松倉重政は、日野江城・原城が南に偏って居るため、両城を廃して日野江・両城を廃城にして、元和4年に島原森岳に築城したのが島原城である。

 この島原城築城の苛酷な夫役・重税と切支丹弾圧の結果、重政の子勝家(重治)の時、寛永14年に島原の乱が起こった。この乱の終結後、勝家は責任を問われ切腹し松倉家は断絶となった。

 松倉氏改易の後に、遠江浜松より高力忠房が40,000石で入封する。忠房は、島原の乱後の復興とキリシタン弾圧の強化の使命をおびていた。寛文9年、2代高長は暴政を行ったことにより改易され、丹波福知山から松平(深溝)忠房が65,900石で入封する。

 寛延2年、松平忠祇が下野宇都宮へ転封となり、入れ替わって戸田忠盈・忠寛と二代居城するが、安永3年に再び戸田・松平氏は入れ替わり、松平忠恕が入って以降松平氏は島原を動く事なく八代続いて忠和の時に明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: 島原鉄道島原駅〜徒歩約10分
 車 : 長崎道諫早IC〜国道251号線
駐車場: 島原城本丸内の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
地形にとらわれずない幾何学的な縄張りのお城。

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