肥前 原 城


お城のデータ
所在地 長崎県南島原市南有馬町乙
遺 構 曲輪、石垣、空堀
形 式 平山城 築城者: 有馬貴純 築城年代: 明応5年


見 ど こ ろ
( 本丸西側の櫓台 )
( 本丸正門脇の石垣 )
( 本丸埋門跡 )
 「島原天草の乱」の舞台原城。島原湾に向けて南東に突き出した岬の先端部を利用して築かれている。岬の三方が海に囲まれ、唯一地続きとなっている西側(現在は国道が251号線が通る一帯)は、かつては低湿地帯となり、満潮時には海水が流入して「海に浮かぶ城」となる要害であったようだ。

 原城の縄張りは、断崖絶壁を背にした岬の最高所に本丸を置き、梯郭式に北に向かって二の丸・西二の丸・二の丸出丸・三の丸・南三の丸と並び、三の丸北東部に大手門(日野江口)が開かれている。更に、本丸西側に隣接して鳩山出丸と南に一段低く天草丸が配置されている。

 百聞は一見に如かず。多少の予備知識はあったが、訪れる前に大した規模の城ではないと思い込んでいたが、一揆軍が籠城して幕府軍12万の大軍を悩ました城だけのことはあった。

 本丸前には空堀が残り、東側の蓮池とともに今も往時の地形が見事に残っていた。本丸には、2ヶ所の虎口が開かれている。東側の池尻口門と車道となっている所に本丸表門の枡形虎口があり、ここの石垣遺構は見応えがある。

 原城は、一揆後に幕府によって徹底的に破却されたが、それでも本丸石垣は見応えがある。西側にせり出した櫓台にはかつて三層の櫓が建てられていたと外国人宣教師の報告あるとか。櫓台の他にも本丸北面から池尻口門へ至る石垣は、高さこそあまりないが捨てがたいポイントだ。


歴     史
( 本丸門の石垣 )
( 池尻口門の石垣 )
( 本丸北側の空堀 )
 原城は、明応5年に日野江城主有馬貴純によって築かれた。有馬氏は南北朝時代以後は衰退するが、8代有馬氏澄が勢力を盛り返し、明応年間には有馬氏中興の祖と云われている9代貴純に至って、島原半島全域(高来郡)から藤津・杵島郡まで氏配下に治め、国人領主から戦国大名へと成長した。

 14代有馬晴信は、キリスト教布教を許し南蛮貿易による勢力拡大を図り、自身も切支丹大名でもあった。故に、天正15年の豊臣秀吉による禁教令後も有馬領では切支丹信者は増加した。

 慶長17年、有馬晴信は海外貿易に関する不始末(岡本大八事件)で改易となり甲斐に流され自害を命じられた。しかし、嫡男直純は改めて日野江4万石を与えられたが、慶長19年に直純は日向延岡に移封となった。元和2年、大和五條から4万石で松倉重政が日野江城主となり、元和4年には島原城の築城に伴い日野江・原両城とも廃城になった。

 慶長17年の幕府による切支丹禁教令、有馬直純の移封、松倉重政の島原城築と続く切支丹弾圧と過酷な苛政によって、寛永14年に島原の乱が勃発する。

 一揆軍は有馬・小西の旧臣の指揮の下に原城を修復して立て籠もる。一度は幕府鎮圧軍を撃退して上使板倉重昌を討死にさせるが、老中松平定綱率いる12万の軍勢を相手に3万の一揆軍は、3ヶ月の間戦い続けたが、ついに天草四郎以下全員が討たれ落城した。


お城へのアクセス
鉄 道: 島原鉄道島原駅〜バス/原城前
 車 : 長崎道諫早IC〜国道57号線〜県道55号線〜国道251号線
駐車場: 原城の見学者用無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
「島原天草の乱」の舞台となったお城。

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