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| ( 下の曲輪埋門 ) |
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| ( 大手門脇の辰鼓櫓 ) |
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| ( 三の丸西口門の石垣 ) |
文禄4年、豊臣秀吉の従兄弟小出吉政が播磨龍野から有子山城へ移り55,000石を領した。慶長5年の関ヶ原では小出秀政・吉政親子は西軍に与したが、弟秀家が東軍に与した。戦後、秀家の功に免じて秀政・吉政父子は本領安堵となっている。
慶長9年に和泉岸和田城主小出秀政が死去すると、吉政は岸和田へと移り、有子山城へは吉政の嫡男吉英が入り50,000石を領した。有子山城へ入った吉英は、領国経営に不便な山城を廃し山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いた。
慶長18年、小出吉英は父吉政に死去に伴い和泉岸和田へ移り、弟吉親が29,700石を領して出石城主となった。元和5年に吉親が丹波園部へと移封となり、兄吉英が50,000石で再封となった。
寛文6年に吉英の遺領を嫡男吉重が嗣いだ際、弟英本(倉見小出家)と英信(大藪小出家)にそれぞれ2,000石、外孫の秀勝(山本小出家)に10,00石を分知、更に延宝元年に吉重の跡を継いだ英安も弟英直(土田小出家)を1,500を分知している。元禄9年に6代英及が3歳で夭折し出石小出家は無継嗣により改易となった。
小出氏断絶後、武蔵岩槻より松平忠徳が48,000石で入る。忠徳は本丸の藩主居館を三の丸に移して対面所とした。対面所はそれ以降の歴代出石藩主の居館となった。宝永3年忠徳は信濃上田へと移封となり、入れ替わって仙石政明が53,000石で入封した。天保7年に7代藩主久利の代で起きた仙石騒動により仙石家は30,000石へと減封となり明治を迎えた。 |