信濃 上田城


お城のデータ
所在地 長野県上田市二の丸
遺 構 曲輪、櫓、門、石垣、土塁、堀
形 式 平城 築城者: 真田昌幸 築城年代: 天正11年


見 ど こ ろ
( 本丸の西櫓 )
( 尼ヶ淵の石垣と南櫓 )
 上田城は、千曲川の分流尼ヶ淵の断崖を背にして築かれている。現在では川の流れはないが、上田駅付近から城跡へと河岸崖は良く残っていて、かつての尼ヶ淵の面影を残している。

 城の縄張りは、尼ヶ淵に接して長方形の本丸を置き、東西に虎口を開き、7基の櫓と2基の櫓門が建てられていた。現在は、北・南・西櫓が現存し東櫓門が復元されている。また、本丸の三方に掘られた内堀は、北東隅が鬼門除けとして設けられた隅欠けとなっている。

 本丸を取り囲むように二の丸が配され、二の丸東側と西側に堀の一部が残っている。本丸・二の丸の主郭部の東側には堀に囲まれた城主居館や中屋敷・蔵屋敷がある三の丸、西側には小泉曲輪が配され、百間堀や捨堀と広大な堀が巡らされていた。

 上田城の城址公園駐車場から尼ヶ淵に面して三段の石垣が積まれている。上田城は、真田昌幸の築城であるが、関ヶ原合戦後に破綻され、仙石氏によって改修されている。この時、埋められた堀を掘り起こしたとされ、この辺りの石垣が真田時代の石垣とも考えられているとか。


歴     史
( 本丸西虎口の土橋 )
( 本丸土塁と内堀 )
 上田城は、天正11年に真田昌幸によって築かれた。昌幸は、武田氏滅亡後は徳川家康に与し、海津城へ進出した上杉景勝に備えるため家康の了解を得て上田城を築いている。 

 天正13年、徳川氏と北条氏の和睦の条件に真田氏の所領であった沼田城を渡すことになったが、これを不服として昌幸は上杉方と和解し、徳川勢とこの上田城で迎え撃ち勝利している。

 慶長5年、西軍に与した真田昌幸は、東山道を西へ向かう徳川秀忠勢を上田城にて足止めして関ヶ原の合戦に遅参させ、二度も徳川の大軍を撃退したとして、真田昌幸と上田城の名を天下にとどろかせた。

 関ヶ原の役後、東軍に加わった昌幸の長男沼田城城主真田信之が城主となるが、元和8年に信州松代に転じ、仙石忠政が信州小諸より入城する。忠政は上田城の改修に着手したが、寛永5年に病没したため、城の普請は中断した。現在残っている3基の櫓はこの時に建てられたもの。

 宝永3年、仙石政明が但馬出石に移封し、入れ替わり松平忠周が出石より58,000石で入封し、以後松平氏が明治まで7代渡り上田を領した。 


お城へのアクセス
鉄 道: しなの鉄道上田駅〜徒歩15分
 車 : 上信越道上田菅平IC〜国道144号線〜国道18号線
駐車場: 上田城址公園の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
徳川の大軍を2度も打ち破ったお城。

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