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| お城のデータ | |||||
| 所在地: | 広島県広島市中区基町 | ||||
| 遺 構: | 復元天守・櫓・櫓門、曲輪、石垣、堀 | ||||
| 形 式: | 平城 | 築城者: | 毛利輝元 | 築城年代: | 天正17年 |
| 見 ど こ ろ | ||||||||||
広島城の縄張り、中州の中央部に南北に長い長方形の本丸を置き、南に馬出曲輪である二の丸、これら本丸と二の丸を取り囲むように内堀が巡らされ、その外側の北を除く三方には三の丸と中堀が囲繞し、三の丸南側には外曲輪と外堀が毛利氏時代に築城された。 更に、関ヶ原後の入った福島正則によって、太田川に沿って西側の外曲輪と本丸北側に北の外曲輪と北東の外曲輪が増築されている。北の外曲輪が幾分湾曲しているのは、太田川の分流を堰き止めて外堀とした名残であるとか。 広島城は、中国の覇者毛利氏の居城として築かれただけに、五層天守は三層の小天守を2基(現存せず)を伴った豪壮な天守で、秀吉の築いた大坂城天守よりも大きい天守であったが、小天守は明治維新後に解体され、残った大天守も戦災で焼失し、現在は鉄筋コンクリートで外観復元されている。 広島城は、全国でも有数の櫓が多い城で、櫓78ヶ所、城門23ヶ所が建ち並んだ姿は嘸かし豪壮な城であっただろう。しかし、今では本丸・二の丸部分と、これらを取り囲む水堀が残るだけだ。二の丸に中御門・太鼓櫓と続多聞櫓が、木造で復元されている。 本丸は、南に内桝形の中御門と東に外枡形の裏御門と二つの虎口が開かれ、本丸内は二段に分かれている。下段(現在の護国神社境内一帯)と上段にはかつて本丸御殿が建ち並び、北西隅に天守が建てられている。 本丸上段は、天守と小天守台から二重櫓と長櫓があった北面には石垣が築かれてるが、その他は芝土塁となっている。城の中枢部で堅固に築かれる場所であるにも関わらず、ここには石垣が築かれていない。不自然な縄張りである。 これは福島氏改易の理由になった「無届け修築」を咎められた際に、正則が修築部分とは異なる本丸上段の石垣を破却したものだ。修復箇所の破却では城の防備に欠陥を生じ、城主として一番体面に関わる本丸上段の石垣破却すれば幕府の許しが出ると考えたのであろうか。しかし、福島氏の改易を狙っていた幕府にはこの策も通じなかったようだ。今でも、本丸北東角の石垣がその破却跡を物語っている。 |
| 歴 史 | ||||||||
毛利元就は、高田郡の吉田郡山城を本拠に中国制覇を成し遂げたるが、安芸の国府があり政治・経済・交通の要であった佐東地域(旧佐東郡は江戸時代に沼田郡と改称)の重要性を認識していたと云われている。 天正17年、毛利輝元は山間部の吉田郡山から太田川下流の広島湾頭に位置する五箇庄の地に居城を移すべく築城を開始する。新城は豊臣秀吉が築城した京都聚楽第の縄張りをモデルにしたとも云われ、天正19年には輝元が新城広島城へと移り、慶長4年に全ての工事が完了した。 しかし、慶長5年の関ヶ原の役で西軍の総大将であった輝元は、周防・長門の2ヶ国に減封されて長門萩城へ移る。替わって、関ヶ原の戦功により福島正則が、尾張清洲から49万石で入封した。 福島正則は、広島城を拡張し、更に三原・三次・亀居・神辺・鞆・東城の6支城を築き領内経営に乗り出すが、元和3年に広島で大洪水があり広島城も多大な被害を被った。 元和5年、福島正則は幕府の許可が下りないままに石垣等の修理を行うが、これを幕府から咎められ改易となる。正則は、幕府より信濃高井の地に捨て扶持を与えられ居館を構えて移り、彼の地にて没した。 福島氏改易により所領は二分され、安芸一国と備後8郡42万石を浅野長晟に与えられ、元和5年に福島正則の去った広島城に紀伊和歌山から入り、備後東部6郡と備中2郡合わせて10万石に加増された水野勝成が大和郡山から福山城へと入った。広島に入った浅野氏は、長晟以後代々広島から動くことなく12代長勲の時に明治を迎えている。 |
| お城へのアクセス | |
| 鉄 道: | JR山陽本線広島駅〜市電/紙屋町 |
| 車 : | 山陽道広島IC〜国道54号 |
| 駐車場: | 城跡周辺のオフィス街有料駐車場を利用 |
| ひとくち MEMO | ||||||
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