山城 聚楽第


お城のデータ
所在地 京都府京都市上京区一条堀川
遺 構 石垣(埋蔵保存)、移築御殿、移築門
形 式 平城 築城者: 豊臣秀吉 築城年代: 天正14年


見 ど こ ろ
 聚楽第は、方形居館の縄張りを基本として築かれた豊臣政権の政庁だ。縄張り図を見ると長方形の本丸を中心にして、北と西、南にそれぞれ方形の曲輪を馬出曲輪風に配し、それを幅簿広い堀で囲繞した姿であったようだ。現在は、密集した住宅地に完全に埋没している。

 部分的な発掘調査によれば、堀川通りから中立売通りへ西に進むとハローワーク西陣がある。ここが聚楽第本丸東側堀のラインで民家の片隅に石碑が立てられている。ここから約300m西進すると正親小学校があるが、この付近が本丸西側のライン。小学校北東角に案内板と城跡碑がある。

 南は西辰巳町の児童公園北側のラインで、マンションの地下には聚楽第の石垣が眠っている。マンション入口脇に案内板があった。

 聚楽第の建造物は、廃城後に京都伏見城へ移築されたたが、京都の寺院に移築され、京都西本願寺飛雲閣、醍醐寺三宝院唐門、妙覚寺山門等が知られている。


歴     史
 聚楽第は、天正14年に豊臣秀吉によって築かれた。天正13年に関白に就任したことから、京での居城(政庁)として平安京大内裏の故地である「内野の地」に築いた。天正16年には後陽成天皇を聚楽第への行幸を仰ぎ、諸大名へ秀吉の権力を誇示した。

 天正19年に秀吉は関白と聚楽第を甥の秀次に譲るが、秀頼の誕生を境に秀吉と秀次の関係が悪化する。ついに文禄4年に謀反の疑いをかけられた秀次は、高野山へ移され切腹を命じられ、聚楽第も徹底的に破却された。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線京都駅〜バス/堀川下立売
 車 : 名神京都I西IC〜国道1号線〜府道38号線(堀川通り)
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
豊臣政権の京の政庁として築かれたお城。

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