豊後 府内城


お城のデータ
所在地 大分県大分市荷揚町
遺 構 曲輪、現存櫓、復元櫓、櫓門、廊下橋、石垣、水堀
形 式 平城 築城者: 福原直高 築城年代: 慶長4年


見 ど こ ろ
( 現存する出合曲輪 宗門櫓 )
( 出合曲輪 大手口多聞櫓 )
( 東之丸 到着櫓 )
( 東之丸 南東隅模擬櫓 )
( 東之丸 三重櫓台 )
( 東之丸 北東隅二重櫓 )
( 本丸北曲輪 菱櫓・扇櫓台 )
 府内城は、荷揚城・大分城とも呼ばれ別府湾に注ぐ大分川の河口近く築かれている。江戸時代後半になると大分川による土砂の堆積により河口部の陸地化が進んだが、築城当時は城の北側には別府湾に沿う浜堤、住吉川と大分川分流の合流点辺りまで海が入り込み、干潟や中州が形成され内湾を利用した海城であった。

 府内城は、北側は大分川分流と内湾に面して本丸を置いて南から西へ向けて梯郭式に曲輪を配置した後堅固な縄張りだ。本丸の南と西側にL字型に二の丸を配置し、その南と西に三の丸、そして更に外側に惣構えと四重の堀が防備を固めている。

 府内城は、かつて本丸北東隅に四層の天守が建ち、天守付櫓・渡櫓・櫓門・二層隅櫓を結んだ連結式の天守曲輪があり、一段低く本丸東曲輪と本丸北曲輪が配され、天守曲輪と本丸東曲輪を約20m幅の内々堀が巡らされていた。本丸は、西之丸との間の土橋を渡り大北櫓門へと入るのが表ルートであった。

 文化会館の撤去後、大分市の「大分城趾公園整備・活用基本計画」によると、天守台から続く渡櫓等の天守曲輪の石垣が内々堀に沿って復元し、内々堀は復元されないがその位置を明示するなどが計画され、完成された姿を早く見てみたいものだ。

 天守曲輪は天守台と西側の付櫓・二重櫓台は残っているが、内々堀に面した石垣な残っていないが、本丸北曲輪は往時の姿を今に留めていて、菱櫓・扇櫓台が残り西北隅に人質櫓が現存している。

 府内城の二の丸は、東之丸・出合曲輪・西之丸と三つの曲輪からなる。東之丸には藩主居館が置かれ、今は櫓台が残っているだけだが三階櫓が東面に建てられていた。現在は到着櫓と平櫓のあった場所に二層の模擬櫓、北東隅二重櫓が復元して建てられている。

 出合曲輪は、二の丸の東西両曲輪を繋ぐ細長い曲輪で、東西の中仕切門により東西両曲輪とは区画されている。出合曲輪東には南に向けて大手口が開かれ、大手口多聞櫓と付櫓が復元されている。今は石橋となっているが、本来はここにも廊下橋が架けられていた。また、出合曲輪の城壁の途中に平櫓の宗門櫓が現存している。

 西之丸は、本丸の西側に南北に長い方形の曲輪で、かつては西面に三基の二重櫓が建てられていた。現在は西南隅櫓が復元されて府内城のビューポイントに一つとなっている。三の丸から北の丸と山里丸(現松栄神社境内)と二つの馬出曲輪を経て復元された廊下橋を渡って西之丸へと入る。このルートが府内城の搦手口で、西之丸西北隅櫓(現在は櫓台のみ)が搦手口に睨みを利かせている。

 見所の1つに全国の城でも珍しい遺構が海に築かれた帯曲輪だ。かつて海に面していた城の中心部を防備するため、内堀を三の丸から北の中島まで約600mの帯曲輪を設けられた.。今でも城趾公園の東から北にかけて帯曲輪の遺構を見ることができる。

 三の丸は、かつては武家屋敷が建ち並んで曲輪だ。現在は市街地となり全く面影はない。大分駅前から北へ真っ直ぐ伸びる中央通りが中堀跡で、これを基準に縄張図と見比べて見ると大凡の三の丸の姿が見えてくる。北口門が大分中央警察署付近、西口門が大分銀行本店付近、東口門が大分県庁敷地の西南隅辺りで、少し東へ張出していて県庁敷地東側のラインまでが三の丸だったようだ。 


歴     史
( 現存する本丸北曲輪 人質櫓 )
( 西之丸 西北隅二重櫓台 )
( 復元された西之丸 廊下橋 )
( 廊下橋前冠木門跡 )
( 本丸 北二重櫓台 )
( 本丸 天守台 )
 文禄2年、豊後の領主大友義統が文禄の役の不手際により改易されると、太閤検地により41万石とされた豊後は多くは豊臣氏の蔵入地となり、秀吉臣下の諸将に細分されて統治されることなった。

 府内には豊臣秀吉の家臣早川長敏が大名に取り立てられ大友氏の居館であった上原館へ入り13,000石を与えられ、蔵入地代官として47,000石を預けられた。しかし、慶長元年に慶長の役での不手際で改易され豊後杵築に謹慎となった。

 慶長元年、石田三成の妹婿の福原直高が豊後臼杵から移り12万石を領した。直高は大分川の河口近くの「荷落」と呼ばれた地に築城を開始し、慶長4年には一応の完成をみて荷落では縁起が悪いとして「荷揚城」と命名した。しかし、同年に直高は石田三成の失脚もあり慶長の役での不手際等を理由に改易された。

 福原直高改易されると、早川長敏が府内城主に2万石で返り咲いた。しかし、翌年の関ヶ原の役では西軍に与し、細川幽斎の籠もる丹後田辺城攻めにも参陣している。この為長敏は戦後に改易となった。

 慶長5年、関ヶ原の戦功により竹中重利が豊後高田より加増されて移り2万石を領した。重利が入城した府内城は未完の城であった為、徳川家康の許可を得て城の増改築に着手した。

 慶長7年、重利は四層の天守をはじめ諸櫓を建て城の中枢部を完成させた。更に三の丸の外側を取り囲むように城下の整備にも着手し、慶長12年には城下への3ヶ所(笠和口・堀川口・塩九升口)が設けられ府内城を惣構えを持つ近世城郭として完成させた。

 寛永9年、2代重義は長崎奉行に任じられキリシタン弾圧を行ったことで知られている。しかし、東南アジアとの密貿易を行ったことで長崎奉行を罷免され、寛永11年に江戸浅草海禅寺で切腹させられ竹中氏は改易となった。

 寛永11年、竹中氏に代わって日根野吉明が下野壬生より2万石を領した。吉明は寛永15年に三の丸の北口・西口・東口門を櫓門に改築している。しかし、明暦2年に吉明が没した際に嫡男吉雄は既に正保2年に没してなく、日根野氏は無継嗣のため改易となった。

 日根野家改易後は府内城には城番が置かれた。明暦2年に日根野吉明の義理の甥にあたる松平(大給)忠昭が豊後高松より移され22,200石を領した。忠昭は万治3年に帯曲輪を築き直し、寛文7年には二の丸の改修と三の丸北口に多聞櫓を設けている。

 忠昭以後、大給松平氏が代々府内を領して11代近説の時に明治を迎えたが、この間府内城は度重なる大火に襲われ、特に寛保3年の大火により天守をはじめ城内の大半の諸櫓や門などが焼失している。また、地震による被害も多く、安政元年の大地震では天守台や櫓の石垣が崩れ、人質櫓・藩主御殿などが大破している。


お城へのアクセス
鉄 道: JR日豊本線大分駅〜バス/県庁前
 車 : 東九州道大分IC〜県道21号線〜国道210号線〜国道197号線
駐車場: 府内城周辺の有料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
隅櫓や廊下橋も復元されているお城。

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