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| ( 本丸空堀と土橋 ) |
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| ( 本丸格子門脇の石垣 ) |
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| ( 田原城惣構の惣門跡石垣 ) |
田原城は、文明12年に戸田宗光によって築かれた。戸田氏は、田原を拠点に渥美半島統一を目指して勢力を拡大する。しかし、天文16年に戸田康光・堯光父子が、今川氏へ送られる松平竹千代(徳川家康)を強奪して織田氏へ送ってしまった為に今川氏に攻められ康光・堯光父子らは討死して戸田氏は没落した。その後、渥美半島一帯は今川氏の領有となり田原城代が置かれた。
永禄8年、三河統一に乗り出した家康は吉田城を攻略した後に田原城を攻めた。今川氏の城代朝比奈元智は開城して去り、家康は田原城攻めの先鋒であった家臣本多広孝・康重父子を田原城へ入れた。
天正18年に本多康重が家康の関東移封に従い上野白井20,000石に転じ、池田輝政が東三河一円で152,000石を秀吉から与えられ、美濃岐阜より吉田城へ入ると、家老伊木忠次を田原城代に命じて田原城を近世城郭へと修築させた。
慶長5年の関ヶ原の戦功により、輝政が播磨姫路へと加増転封し、田原城へは旧主戸田康光没後に家康に仕えていた戸田光忠の孫尊次が伊豆下田から10,000石で先祖伝来の地に返り咲く。
寛文4年に3代戸田忠昌が天草富岡へと移封となり、三宅康勝が三河挙母(佐久良城)から12,000石で入封し、以後三宅氏が代々城主として明治を迎える。江戸末期の著名人である渡辺崋山は、11代三宅康直の家老であったことはあまり知られていない。 |