駿河 駿府城


お城のデータ
所在地 静岡県静岡市葵区城内
遺 構 櫓、門、石垣、堀
形 式 平城 築城者: 徳川家康 築城年代: 天正13年


見 ど こ ろ
(復元された坤櫓)
( 復元された巽櫓 )
( 東御門と続多聞櫓 )
( 二の丸水路 )
 駿府城は、本丸を中心として二の丸・三の丸と三重の堀と曲輪が囲繞する典型的な輪郭式の縄張りの城だ。 

 現在は、駿府公園となっている。本丸を囲む堀(内堀)は埋められてしまい跡形もないが、公園の東側に内堀の排水用として二の丸との間にあった水路の遺構と共に内堀の遺構が少しだけ残っている。

 二の丸を囲繞する水堀(中堀)がほぼ完存し、三の丸水堀(外堀)は一部埋め立てられている。二の丸を囲繞する石垣の上には、二の丸坤櫓・巽櫓・東御門(櫓門)と続多聞櫓が復元され、高石垣と堀と白い櫓と近世の「お城」の姿が再現されている。

 復元された曲輪内を見学することができる。巽櫓の中に入るとおもしろい模型が展示されている。一つは駿府城天守閣(寛永12年に消失)の模型、もう一つが駿府公園整備計画の模型がある。

 整備計画は、天守台も含む本丸石垣・堀の復元が盛り込まれている。完成はいつになるかは知らないが、お城ファンにとっては嬉しい限りだ。

 明治時代に埋められた本丸天守台周辺部では平成28年から発掘調査が継続して行われている。

 この発掘調査によって、豊臣秀吉の命により改修された際に築かれた天正期の大天守台と小天守台が出土し、豊臣系の城には馴染みの金箔瓦も出土している。天正期の天守台は、野面積みの石垣で、現地説明会資料に拠れば石垣の勾配は慶長期の石垣に比べて勾配が緩やかであったとか。

 一方、家康の隠居城であった慶長期の天守台は、約61m×約68mの大きさがあり、日本一大きい天守台であったことも確認された。発掘された天守台を眺めながら、「一体この大天守台上には、どんな天守が建てられていたのだろうか?」と往時の姿を思い浮かべてしまう。   


歴     史
( 天正期の天守台 )
( 慶長期の天守台南西隅 )
( 慶長期の天守台北面 )
 駿府城は、時代は変わるが同じ位置に3回築かれている。今川氏の居城(館)の駿府城は、永禄11年に武田信玄の駿河侵攻と、天正10年の徳川家康の侵攻により灰燼と帰す。 

 天正10年に武田氏が滅亡すると駿河一国を得た家康は、天正13年に松平家忠に駿府城築城を命じた。同14年には家康は浜松城から駿府城へと居城を移した。しかし、この時点では城は完成しておらず、天正17年まで築城工事は続いた。

 天正18年の小田原征伐後に家康は関東移封となり江戸城へと移り、近江水口岡山城主中村一氏が145,000石で入封する。中村氏は、豊臣秀吉の命により、家康の居城であった駿府城を豊臣の城でへと改修している。

 慶長5年に関ヶ原の合戦で東軍に与した中村一忠は合戦前夜に死去したが、嫡男一忠は伯耆米子へと加増されて移り、駿府には家康の家臣内藤信成は入った。

 慶長10年に家康が隠居して大御所となると、内藤氏を近江長浜へと移して、同12年より家康の隠居城として駿府城の大修築を行い、慶長13年に完成した。

 城主は、徳川頼宣(家康と同居、後紀伊和歌山へ転封)、徳川忠長、明治維新で江戸城を明け渡した後移された徳川家達の3人だけで、江戸時代を通して幕府直轄領となり駿府城代が置かれた。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線静岡駅〜徒歩10分
 車 : 東名静岡IC〜県道354号線〜国道1号線/静岡駅前〜県道27号線
駐車場: 三の丸県庁南側に有料駐車場


ひとくち MEMO
徳川家康の隠居城として築城されたお城。

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