丹波 篠山城


お城のデータ
所在地 兵庫県丹波篠山市北新町
遺 構 復元御殿、曲輪、石垣、土塁、堀、馬出、移築門
形 式 平山城 築城者: 松平康重 築城年代: 慶長13年


見 ど こ ろ
( 天守台と内堀復元工事 )
( 天守曲輪北西隅櫓台 )
( 北廊下門 )
( 東馬出曲輪 )
 篠山城は、城としては中規模の城ではあるが、城郭建築の技術が最高に高まった時期に、しかも天下普請として幕府の威信もあったのだろう、今に残る石垣群を見ていると、この城の堅固さを改めて認識させられる。

 篠山城の縄張は、笹山と呼ばれた小山を削平して方形の天守曲輪(本丸)を置いた。天守曲輪は、天守(実際には建てられなかった)と三隅の二重櫓を多聞櫓で連結した「連結天守」の縄張となっている。 

 天守曲輪と梯郭式に二の丸が配され、平成12年に復元された本丸大書院をはじめとする城主居館があり、天守代用となった三重櫓と5基の二重櫓を多聞櫓で連結していた。

 この本丸・二の丸を犬走りと内堀が囲繞している。現在も旧中学校のグランド・市民グランドとなっていた一帯も含めて、埋められた内堀と石垣の復元工事が行われていた。三の丸は、本丸・二の丸を輪郭式に配され、幅の広い堀と土塁が囲繞していた。

 篠山城は、馬出の遺構が残りことでも有名だ。馬出は三の丸への3ヶ所の虎口に設けられていた。大手と東馬出が石垣造りで、南馬出が土塁である。(内側は石垣が築かれていたが今はない)大手馬出は、道路のため今はないが、道路沿いに石垣の一部が残る。また、東と南の馬出は今も形状を良くとどめている。

 二の丸に復元された大書院は、二条城大書院を参考にしながら復元工事が進められたとか。真新しい白木の柱、木の香りが鼻をくすぐる。

 新築の書院・御殿とはこのようなものかと、普段年季の入った古い建物の遺構を見慣れているだけに感動しっぱなしであった。(もっとも長い年月、風雨に耐えた建造物には重みと深みがあるが・・・。)


歴     史
( 二の丸埋門と本丸南西櫓台 )
( 二の丸南面の石垣 )
( 二の丸西面と内堀 )
 篠山城は、大坂城の豊臣秀頼包囲網の一城として築かれた。慶長10年、常陸笠間より丹波八上城へ入った松平(松井)康重は、慶長13年に徳川家康の命により笹山に築城を開始した。篠山城築城には、普請奉行に池田輝政が命じられ、藤堂高虎の縄張りにより西国大名の天下普請で築かれた。

 家康は、関ヶ原の合戦に勝利した後、豊臣恩顧の西国大名の勢力を削減して徳川幕府の確立のため、戦略の要衝の地に天下普請で築城した。篠山城もその一つである。篠山城以外に、膳所城彦根城丹波亀山城名古屋城越後高田城などの諸城がある。 

 松平(松井)康重は、慶長19年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも篠山から出陣し、豊臣氏滅亡後の元和5年に和泉岸和田に移され、替わって上野高崎より松平(藤井)信吉が入封した。その後、松平(藤井)忠国が元和6年に播磨明石へと移り、慶安2年に摂津高槻より松平(形原)康信が入った。

 寛延元年に松平信孝は丹波亀山へと移り、入れ替わって青山忠朝が5万石で入封し明治まで代々篠山を領した。文政10年に青山忠裕は老中を30年に渡り務めた功績により1万石を遠江国内で加増されている。 


お城へのアクセス
鉄 道: JR福知山線篠山口駅〜JRバス・神姫バス/二階町
 車 : 舞鶴道丹南篠山口IC〜県道299号線〜県道306号線
駐車場: 大手門前と二の丸に無料駐車場(約200台程度)


ひとくち MEMO
馬出の遺構が良く残る天下普請のお城。
  • 篠山城の移築門
    金照寺 兵庫県丹波篠山市菅

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