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お城のデータ | |||||
所在地: | 熊本県人吉市麓町 | ||||
遺 構: | 曲輪、復元櫓、石垣、堀 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 相良長頼 | 築城年代: | 元久年間 |
見 ど こ ろ | ||||||||
人吉城は、中世人吉城である原城が築かれている丘陵から堀切で分離して、球磨川沿いの「内城」と称されていた城域に近世人吉城が築かれている。その縄張りは、最高所に本丸を置き、球磨川に向けて梯郭式に二の丸・三の丸を配し、更に、城山西麓に城主居館である「御館」が設けられ、更にその西側に西外曲輪があり重臣の屋敷となり、西端に大手門が開かれたいた。 本丸は狭く天守もなく、二階建ての護摩堂や山伏番所が建てられていた。一段下に二の丸は実質的な本丸で周囲は石垣で固められ、内桝形の「中の御門」の遺構は見応えがある。また、塁上にもう一つの虎口である埋門が設けられている。 二の丸の北から西側へと三の丸があり、かつては塩蔵などの建物のがあった。三の丸への虎口は、三の丸から石段を下った所に設けられた大手門と同様の櫓門形式の御下門が三の丸への唯一の虎口となっている。門脇に聳えるように築かれた高石垣は見応えがる。 球磨川に面して内桝形の水ノ手門が開かれている。大手門に次ぐ重要な虎口で、往時は船着き場も設けられここから球磨川を利用して運ばれた年貢米などの物資が城内へと搬入された。水の手橋から水ノ手門一帯を眺めると、今でも往時の様子が直ぐに思い浮かべることができる。 水ノ手門を潜ると正面に外曲輪(城主居館)北側の高石垣が守りを固めている。この石垣ははね出し構造の武者返しが設けられ、全国的にも珍しい遺構となっている。また、御館裏門の堀合門が発掘調査に基づいて脇の塀や排水溝と共に復元されている。本来の堀合門は、大手門からまっすぐ5分程の歩くと家老を務めた新宮家の武家屋敷(人吉一中脇)に移築され現存している。 |
歴 史 | ||||||||
南北朝時代から室町時代の相良氏は、人吉荘を本拠とする下相良家が勢力を拡大し、11代長続が文安5年に多良木の上相良家を滅ぼして球磨・八代・芦北三郡を統一した。戦国時代になると16代義滋は一族の内訌を納め、相良氏は戦国大名へと脱皮する。 その後、相良氏は義滋−晴広−義陽と肥後南部に勢力を誇った。島津氏が薩摩・大隅・日向の三州を統一した島津氏は肥後への侵攻を図る。この頃(天正年間)に義陽は人吉城を大改修をして城の近代化に着手した。(城の完成は、80年後の寛永16年、21代頼寛の時) 天正9年に肥後南部へと侵攻を開始した島津義久は、相良氏の重要拠点水俣城を落とす。八代古麓城に居た相良義陽は島津氏と芦北の地を割譲し、嫡男忠房と長毎と二人の息子を人質に出して島津氏に降った。同年、島津氏は更に肥後中央部へ侵攻すると、相良義陽は先鋒を命じられ、阿蘇氏の重臣甲斐宗運と響野原の合戦に敗れ討死した。 天正13年、義陽の跡を継いだ嫡男忠房が早世し、義陽の次男長毎(頼房)が12歳で家督を継ぐ。長毎は島津義久から大友氏攻め等への参陣を命じられ、家老深水宗方、犬童頼安・頼兄父子ら重臣が球磨勢を率いて従軍している。 天正15年の豊臣秀吉による九州征伐では、相良長毎は犬童頼安らと共に島津氏に従い日向へ出陣していたが、勝算なしと判断した家老深水宗方は、長毎の弟相良長誠と共に八代に入った秀吉に哀願して相良長毎の本領安堵が許された。 慶長5年、20代相良長敏は関ヶ原では西軍に与して大垣城に籠城したが、秋月種長・高橋元種と共に東軍に寝返り、球磨郡22,000石を安堵された。以後相良氏は人吉を動くことなく35代頼基の時に明治を迎える。相良氏は鎌倉時代から明治まで実に700年近く人吉の領主であった。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR肥薩線人吉駅〜バス/新町 |
車 : | 九州道人吉IC〜県道54号線 |
駐車場: | 人吉城の観光用無料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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