信濃 福与城


お城のデータ
所在地 長野県上伊那郡箕輪町福与字南城
遺 構 曲輪、空堀
形 式 平山城 築城者: 不明 築城年代: 鎌倉時代


見 ど こ ろ
 福与城は、箕輪南小学校南側ある天竜川東岸段丘の緩斜面を利用して築かれていれ、小学校南側から標識に従って東に入って300m程進むと、畑となっている福与城の曲輪が現れる。

 福与城は、本城・北城・南城に区分され、本城は二段に分かれて分かれ、空堀を隔てて北城、二の郭と対している。北の曲輪はが、縄張りから見ると一番奥に配置された曲輪で、ここが草創期には主郭であったとも云われている。

 現在、本城・二の郭・北の郭は雑木も切られきれいに整備されているが、南城・権治郭・赤穂屋敷等の曲輪は、畑地となっている。


歴     史
 福与城は、鎌倉時代に築城されたと伝えられているが、築城年代や築城者については定かではない。

 戦国時代の天文11年、時の福与城主藤沢頼親は、高遠城主高遠頼継と武田信玄と戦った宮川端合戦で敗北し武田信玄に降った。

 天文13年、藤沢頼親が高遠頼継と結んで武田信玄に叛旗を翻した。武田晴信は頼親の支城荒神山城を攻撃したが、これを落とせず上原城に退去した。

 天文14年、再び伊那に出兵して高遠城を攻略した武田晴信は、ついで藤沢頼親の拠る福与城を攻めた。林城主小笠原長時・松尾城主小笠原信定らが藤沢氏に加勢したが、小笠原長時が本陣をおいた竜ケ崎城も陥落したため、福与城は孤立状態となり藤沢頼親は武田氏に降伏した。この時、福与城は焼失し廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR飯田線木ノ下駅〜バス/南小
 車 : 中央道伊北IC〜国道159号線〜県道20号線
駐車場: 福与城の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
戦国時代の居館と軍事的防塞の機能をかね合わせた平山城の遺構。

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