越中 宮崎城


お城のデータ
所在地 富山県下新川郡朝日町城山
遺 構 曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
形 式 山城 築城者: 宮崎長康 築城年代: 寿永元年


見 ど こ ろ
( 二の丸の石垣 )
 宮崎城は、眼下を北陸浜往還が通じ、難所の親不知子不知まで一望できる越後との国境の城だ。現在は城山公園となって車で城まで登れる。

 第二次大戦中、陸軍が電波技術研究所を宮崎城跡に設けたため、新たに削平され土橋が作られ石垣が築かれた。しかし、これらの新しい遺構、特に二の丸の石垣など実によく城跡の雰囲気を醸し出している。 

 宮崎城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、北に向かって二の丸・三の丸と階段状に曲輪が配されて、三の丸には当時の石積みの遺構がよく残っていた。


歴     史
( 本 丸)
( 陸軍構築の土橋 )
 宮崎城は、寿永元年に宮崎長康によって築かれた。北陸宮を源義仲に従っていた宮崎氏によってこの地に庇護されたとか。

 戦国時代になると、大永元年に越後春日山城主長尾為景が新川郡守護代となると、松倉城主椎名長常に新川郡を支配させた。永禄12年に椎名康胤は上杉謙信によって居城松倉城を落とされ、この宮崎城は上杉氏の越中侵攻中継点として重要視され、柿崎景家らが守将として入っている。

 天正10年、織田氏の越中侵攻により魚津城・松倉城が陥落すると宮崎城は織田の武将佐々成政の支配下になる。天正12年に上杉景勝によって攻められ落城するも、再び佐々氏によって奪還され、以後佐々氏、前田氏の持城となった。  


お城へのアクセス
鉄 道: あいの風とやま鉄道泊駅〜タクシー約20分
 車 : 北陸道朝日IC〜国道8号線〜県道103号線
駐車場: 城山公園の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
親不知の難所を控えた越中国境のお城。

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