肥後 八代城


お城のデータ
所在地 熊本県八代市松江城町
遺 構 天守台、石垣、堀、庭園、移築門
形 式 平城 築城者: 加藤忠広 築城年代: 元和8年


見 ど こ ろ
( 大天守台 )
( 小天守台 )
( 頬当御門の石垣 )
 八代城は、球磨川河口右岸に面した低地に築かれた平城で、本丸を中心に時計回りに二の丸・三の丸・北の丸・出丸と輪郭式に曲輪が配置された縄張りとなっている。

 現在は、幅の広い水堀に囲まれた本丸と、道路を隔てた所にある北の丸の一部が公園(堀の一部が残る)として整備されているが、城跡には建物の遺構は何も残っていない。(市内に城門と番所が移築され、3代八代城主直之が築いた松濱軒には建物遺構がある)

 本丸へは、東側(表枡形門)と北側(裏枡形門)に内桝形虎口が開かれている。南側からも入れるが、本丸内にある神社への入口を造るため、石垣を取り崩して後世に造られたものだ。

 築城当時、本丸北西隅に小天守を伴った天守があった。大天守は、小天守を通り、大天守地下の穴蔵へと入る。名古屋城大天守への入り方と同じ形式となっている。名古屋城天守台が加藤清正単独で築いたことから、八代城にも同型式が用いられたのだろう。

 天守台から本丸西側の塁上を歩いてみたが、これが結構スリルがある。 一歩間違えば、堀に転落してしまう。ともかく石垣は高く、しかも柵一つないのだ。


歴     史
( 磨櫓台と欄干橋 )
( 二の丸の石垣 )
( 北の丸の堀跡 )
 八代城は、元和8年に加藤忠広によって築かれた。肥後国は、薩摩島津氏への押さえのため元和の一国一城令でも例外的に本城の熊本城以外に麦島城の存続が認められていた。しかし、元和5年、肥後一帯を襲った大地震のために麦島城が甚大の被害を受けた為、加藤忠広は麦島城を廃して新城八代城を築いた。

 寛永9年、加藤忠広が改易されると、豊前小倉から細川忠利が52万石で熊本城に入封する。この時、隠居の細川忠興が豊前中津より八代に入城し北の丸に隠居所を構え、本丸には忠興四男立孝が入った。

 正保2年、細川忠興・立孝が相次いで没した後、細川光尚は筆頭家老松井(長岡)興長を八代3万石へと移し、立孝の遺児行孝は宇土・益城郡内で3万石を与えて宇土支藩を創設した。

 八代へ入った興長の父康之は、細川藤孝・忠興父子に仕え、細川氏の豊前時代は豊後杵築城代を務めている。興長は、幕府からも城主格の待遇を与えられていた。興長には男子なく細川忠興の六男寄之を養継嗣に迎え、長岡姓を賜り長岡佐渡と称している。興長入城後、松井氏が代々城主を務め11代盈之の時に明治を迎えた。

 八代城は、寛文12年に落雷により大小天守・諸櫓が焼失した。翌年に細川綱利が幕府の許可を得て再建したが、大天守は建てられなかった。更に、寛政9年にも火災に遭い、翌年に本丸大書院は再建されたが、小天守他の櫓は再建されなかった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR鹿児島本線八代駅〜バス/八代宮前
 車 : 九州道八代IC〜国道3号線〜県道250号線
駐車場: 八代城の観光用無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
名古屋城天守と同形式の天守があったお城。
  • 八代城の縄張図(現地案内板より)
  • 八代城の建物遺構
           
    ( 本成寺:本丸表枡形第一門 )     ( 春光寺:三の丸永御蔵門と番所 )     ( 松濱軒:庭園と書院 )
    八代市本町2丁目      八代市古麓町     八代市松江城町

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