飛騨 高原諏訪城



お城のデータ
所在地 岐阜県飛騨市神岡町殿
遺 構 曲輪、土塁、堀切、竪堀
形 式 山城 築城者: 不明 築城年代: 不明


見 ど こ ろ
( 二重の堀切 )
( 主郭北側の堀切 )
( 主郭切岸と帯曲輪 )
( 主郭から見る江馬氏下館 )
 高原諏訪城は、高原川右岸にある江馬氏下館の東側背後にある丘陵(通称城山)に築かれている。江馬氏の菩提寺と伝わる円城寺から登城道を登るが、車だと神岡鉱業和佐保堆積場へと通じる県道484号線を登ると途中に登城口がある。

 高原諏訪城は、北から南へと半島状に伸びる尾根筋の頂上部に主郭部を置き、更に南の尾根筋に二の曲輪群を配置した連郭式の縄張りとなっている。この城の弱点を補強するため、県道脇の登城口から主郭部まで4条の堀切によって遮断線を構築している。

 主郭までの登城道を県道脇から登り始めて直ぐに二重の堀切が出迎えてくれ、更に次のピークを越えた所には堀切が行く手を阻み、堀切を越えて斜面を回り込めば竪堀が待ち構えている。実際に歩いてみると、如何に北の尾根筋からの攻撃を意識した縄張りであるか実感できる。

 主郭は帯曲輪が囲繞するが、主郭自体は虎口の工夫もなく単純なもので見るべきものはない。ただ、主郭からは眼下に平時の居館である下館の他、東町城や傘松城などが一望でき、ここが江馬氏の本城となった理由が分かる。

 主郭部から南の尾根筋へ。主郭部と二の曲輪の間には城を二つに分断するような大堀切があり、降りるのも登るのも一苦労させられる。遮断線としては十分な効果があるだろう。ただ、城兵の城内移動にはちょっと難点があるのではないか。

 二の曲輪は、主郭部ほど公園として整備されておらず、雑木をかき分けながらの見学することになる。二の曲輪は、長方形の曲輪で先端部に三段の帯曲輪が付属して、その一番下の曲輪には土塁と竪堀で守られた虎口が開かれてる。更に南の斜面には大堀切に匹敵する規模の堀切があり、両端は竪堀となっていた。


歴     史
( 主郭南側の大堀切 )
( 二の曲輪群の虎口付近 )
( 南の曲輪群先端の堀切 )
 高原諏訪城は、築城年代や築城者については定かでないが、吉城郡高原郷を領して北飛騨を支配した江馬氏の本城となった。江馬氏の自出は、鎌倉北条氏の一族とも云われているが詳細なことは分からないのが現状のようだ。

 南北朝時代の暦応5年に天龍寺造営の儀礼で江馬左近将監忠継が将軍警護を行う役目の小侍所の武士として飛騨国守護と京極高氏の馬を引いたとの記録がある。

 戦国時代の江馬氏は時経−時盛−輝盛の3代が該当し、北飛騨に勢力を誇り姉小路氏や南飛騨の三木氏と飛騨の覇権を争った。しかし、江馬氏も姉小路氏・三木氏も隣国の武田氏と上杉氏と二大勢力の狭間で揺れ動く小さな勢力でしかなかった。

 永禄7年に武田氏に与した江馬時盛の先導で武田勢を飛騨へと侵攻する。上杉方に与していた江馬輝盛・三木良頼は時盛と対立し形勢不利となったが、同年越後の上杉謙信が信濃川中島へと出陣して武田信玄と対峙した第五次川中島の戦いとなる。このため武田勢は飛騨から撤退せざるを得なくなり、江馬時盛は降伏して江馬輝盛が家督を継いだ。

 天正10年、江馬輝盛は三木自綱と飛騨の覇権を争い八日町の合戦で敗死し、江馬氏の本城である高原諏訪城も三木方の小島時光によって落城する。北飛騨に勢力を誇った江馬氏も没落し歴史から姿を消した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR高山本線飛騨古川駅〜バス/濃飛バス神岡営業所〜バス/江馬館前
 車 : 中部縦貫道高山IC〜国道41号線〜国道471号線
駐車場: なし。(登城口前に2台程度の駐車スペースあり)


ひとくち MEMO
北飛騨の雄、江馬氏の本城となったお城。

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