但馬 八木城 (石の城)


お城のデータ
所在地 兵庫県養父市八鹿町八木
遺 構 曲郭、石垣、土塁、堀切
形 式 山城 築城者: 八木氏 築城年代: 戦国時代


見 ど こ ろ
 八木城(石城)で比高230m、八木古城(土城)は比高310m、ともかく山頂の城跡までの登城道はきつい。

 山城の登城道がきついのは承知の上だが、普通七曲がりと呼ばれる道だ。しかし、この八木城は、麓の下八木口より尾根に沿って約1km、一直線の登城道をひたすら喘ぎながら登るのだ。

 それだけに、山頂に築かれた八木城の印象は、強烈なものがある。何と言っても本丸西面と南面に築かれた高さ約10mほどの高石垣を見ると、約40分のきつい急な登城道での疲労感を吹き飛ばしてくれる。

 この高石垣を見れば、戦国城郭と言うよりは、むしろ近世城郭に分類されるのではないだろうか。本丸には、天守がそれ相当の櫓が建てられていたであろう櫓台が残っている。

 八木城の縄張りは、この本丸を取り囲むように二の丸が配置され、南に三段の三の丸、西にも三段の曲輪が配置され、更に土城へと続く尾根には堀切ある。堀切を渡ると、ちょうど幅1m程の狭い尾根道が土城へと続いている。


歴     史
 鎌倉時代に築城されたという土城(八木古城)には、代々八木氏(朝倉一族)が居城していた。

 八木氏は、南北朝の争乱時代から戦国時代には但馬山名氏に属して、山名氏の四天王の一人として但馬に勢力を誇った。

 この頃、土城に替わって新城を築いたのが八木城(石城)だ。戦国時代末期、天正8年に羽柴秀吉の攻撃を受け、城主八木豊信は降伏した。

 豊信は、秀吉の因幡攻めに参陣して若桜鬼ヶ城の守将となったが、毛利氏の反攻により、若桜鬼ヶ城を去り、その後は消息不明となった。(一族は、後に徳川家康に仕え播磨穂積4,000石の旗本となる)

 八木豊信に替わって天正13年に別所重棟が封じられ、同年19年に嫡子吉治が襲封した。八木城の高石垣は、この別所2代の在城時代に築かれたと考えられる。慶長5年、別所吉治は関ヶ原の役に西軍に与した為に改易となり八木城も廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陰本線八鹿駅〜バス/下八木
 車 : 舞鶴道福知山IC〜国道9号線
播但道和田山IC〜国道312号線/一本柳〜国道9号線
駐車場: なし。(登り口付近に駐車スペース2台程度あり)


ひとくち MEMO
石の城、土の城、新旧二つのお城が楽しめる。

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