丹波 周山城



お城のデータ
所在地 京都府京都市右京区京北周山町
遺 構 曲輪、土塁、石垣、天守台、堀切、桝形虎口
形 式 山城 築城者: 明智光秀 築城年代: 天正8年


見 ど こ ろ
( 二の曲輪の虎口 )
( 二の曲輪の石垣 )
( 主郭の石塁 )
( 西の曲輪群石垣 )
( 主郭西帯曲輪の石垣 )
 周山城は、右京区出張所(旧京北町役場)西側の城山(テレビ受信用アンテナがある山)山頂に築かれている。

 城山へ道は、北山杉が綺麗に植林された登山道を約30分登る。比高220mは確かにきつい。しかし、汗を拭きながら喘ぎ登ったそこには、総石垣づくりの周山城がある。

 主郭までの東西に伸びる尾根筋には間には長方形の三の曲輪・二の曲輪が並び、いずれも虎口と周囲には石垣の遺構がある。二の曲輪北側には北の曲輪群に通じる虎口が開かれている。

 周山城は、山頂部に方形の主郭があり、ここには穴蔵を有する天守台が残っている。そして、天守台北側には直径10m程の井戸跡が残っている。主郭を中心に三方の尾根を全て削平して曲輪群が配置されている。

 西の尾根に設けられた6段の曲輪群が見事に残っていて、植林がされているが遺構を確認することは容易だ。この曲輪群も総石垣造りで、特に野面積みの石垣が3段目の曲輪北側に完存している。

 また、西の尾根曲輪群の先端(送電線の鉄塔がある)付近には堀切が残っている。更に西側にももう1条堀切があり、その先には西の城の曲輪群がある。

 南の尾根曲輪群には内桝形の虎口があり、ここもまた石垣が崩れているものの原形を容易に想像出来る遺構だ。特に、主郭西側下から南の曲輪群へ至る西面に残る石垣は見応えがある。また、南の曲輪群には東西に登石垣の遺構がある。

 北の曲輪群は、先端部の観音尊と呼ばれる曲輪まで急な尾根筋を削平した小曲輪群が連郭式に並び、切り立った切岸が攻め手の登坂を拒む。ここにも僅かであるが石垣の遺構が残っていた。

 東の尾根の曲輪群には、NHKのテレビ受信設備があり、多少遺構が崩されているが、本丸直下の曲輪には2ヶ所の虎口と横矢掛かりの構造となっている。そして、本丸へ3段に分かれた石垣が残っている。これは、まだ高石垣を築く技術がなかったためと考えられ、近江宇佐山城にも同様の石垣が見られる。  


歴     史
( 南曲輪群先端部の石垣 )
( 北の曲輪の石垣 )
 東丹波宇津城を本拠とする宇津頼重は、天文年間には朝廷山国御料所からの貢租を妨害・押領を繰り返し勢力を拡大し、西丹波八上城主波多野氏と組んで戦国大名へと発展する。

 天正7年、明智光秀の丹波入部により宇津城は攻められ開城し宇津氏は滅亡した。 

 光秀は、宇津氏を滅ぼした翌天正8年に東丹波の統治拠点として周山城を築いた。光秀は、丹波支配のための居城として亀山城を築き、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守、そしてこの周山城に明智光忠を配した。

 天正10年、山崎の合戦で明智光秀が敗死すると丹波は秀吉の管轄下に入った。天正12年に秀吉が徳川家康と対立すると丹波の在地勢力が反秀吉方として蜂起し、この対応に秀吉が周山城に入っている。この時期に秀吉の家臣加藤光泰が城主となっている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線京都駅〜JRバス/周山
 車 : 名神高速京都南IC〜国道1号線/京都市内〜国道162号線
駐車場: なし。(ウッディ京北の無料駐車場を利用)


ひとくち MEMO
北山杉に囲まれた石垣造りのお城。
  • 周山城の登城口
    国道162号線沿いの「京北農協前」のバス停に案内板と道標がある。 ここより西に登城道が通じていて、要所要所に道標があるので迷わず山頂の周山城まで行ける。
  • ウッディ京北の観光案内所で縄張り図付の案内図が貰える。

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