岩代 久川城


お城のデータ
所在地 福島県南会津郡南会津町青柳字小丈山
遺 構 曲輪、土塁、石垣、竪堀、横堀
形 式 山城 築城者: 河原田盛次 築城年代: 天正17年


見 ど こ ろ
 久川城は、伊南川左岸に面した小高い小杖山全山に築かれていて、山の西側にも倉沢川流れ、二つの川が天然の外堀となっている要害の地だ。特に、倉沢川に面した西側の斜面は急傾斜となっていて、西側からの侵入を阻んでいる。

 久川城は、小杖山の東側中腹部を削平して7つの曲輪が連郭式に並んだ縄張りとなっている。これら5つの曲輪にはほぼ高低差は無く、堀切と横堀と土塁によって区分され、東側に土塁が設けられた帯曲輪が各曲輪の連絡路にもなっている。

 ただ、他の城と異なるのは、曲輪群と西側の倉沢川に面した尾根筋との比高差が約20m程もあり、尾根筋から一直線に降る竪堀と土塁には圧倒される。しかも、その竪堀が一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪を仕切る空堀にもなっているのだ。

 久川城への登城口は、北の大手口から二の丸北東の枡形虎口へ至る久曲坂を登るルート、東の搦手口からのルートがある。麓の大手口・搦手口とも土塁と堀で固められた枡形虎口で、大手口は消滅してしまったが、搦手口の遺構は良く残っていた。 


歴     史
 久川城は、天正17年に河原田盛次によって築かれた。河原田氏は、下野小山氏の一族で南山鴫山城主長沼氏とは同族。河原田氏は、南会津西部の伊南駒寄城を本拠に葦名・山内・長沼氏と共に「会津四家」の一つに数えられた。

 天正17年、摺上原の合戦で伊達政宗が葦名義広を破り黒川城へと居城を移し、会津制定に乗り出す。この時、山内氏と河原田氏は政宗に抵抗し、長沼盛秀らの伊達方からの攻撃を防ぎきった。しかし、天正18年の秀吉による奥州仕置きで河原田盛次は改易となった。

 蒲生氏郷が会津へ入ると蒲生郷可が入り、上杉景勝が会津へ入ると清野長範が城代を務めた。慶長6年に再度蒲生秀行が会津へ再封されると、久川城へは蒲生彦大夫が城代となり、慶長15年に廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: 会津鉄道会津田島駅〜バス/久川城趾
 車 : 磐越道会津若松IC〜国道121号線〜国道289号線〜国道401号線
駐車場: 久川城の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
「会津四家」の一つ河原田氏が伊達政宗の侵攻備えて築いたお城。

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