豊後 森 陣屋


お城のデータ
所在地 大分県玖珠郡玖珠町森
遺 構 曲輪、石垣、庭園、茶室・門(三島神社)
形 式 陣屋 築城者: 久留島長親 築城年代: 慶長6年


見 ど こ ろ
( 末廣神社清水御門 )
( 茶室 栖鳳楼 )
( 末廣神社桜の馬場と石垣 )
 森陣屋は、角牟礼城の南麓に築かれていた。現在は三島公園となり、公園内には陣屋の石垣と庭園が残されている。また、陣屋前には森川に沿って山間の小さな城下町が今も往時の風情を今に伝えていた。

 村上水軍の末裔が山深い玖珠の地に移り、城を持つことが許されなかった久留島氏歴代藩主の「城」への執着、ただただ涙ぐましい。

 2代通春の時に角牟礼城は廃城となり江戸時代を通じて城跡は「お留山」となるが、3代通清の時代に角牟礼城の修築を試みたとの記録も残っている。また、近年の調査では角牟礼城の三の丸の石垣解体工事の際、石垣にも江戸時代に後半に改修を加えた可能性も見つかったとか。

 城への執着は、森藩の飛び地であった豊後速見郡の頭成港(日出町豊岡)を見下ろす大山積神社にも見ることができる。森藩の支援により寛政年間に改修されたが、とても神社には似つかない城郭と見間違う様な高石垣が組まれている。

 極めつけが、文政7年に8代久留島通嘉が陣屋背後の丘にあった三島神社の再興を口実に城郭造りに改築したものだ。天守に模した茶室「栖鳳楼」、清水門の前には堀に模した池、そして高々と築かれた石垣。三島神社(現在の末廣神社)の境内の随所に「お城」がある。平和に慣れきった江戸時代後期だからこそ出来たのかもしれない。 


歴     史
( 陣屋から末廣神社への参道 )
( 飛び地頭成の大山積神社 )
 森陣屋は、慶長6年に来島長親(後に康親と改名)によって築かれた。村上水軍の一つ来島村上通総は、秀吉に臣従してより姓を来島氏と改めた。慶長2年に慶長の役で戦死した通総の跡を長親が継いだ。

 慶長5年、来島長親は関ヶ原の役では西軍に与したが、妻の叔父福島正則の取りなしもあり家名存続を許されたが、慶長6年に伊予来島から山間部の豊後森14,000石へと移封になった。来島氏は、城主の格式を失っていたため角牟礼城を居城とは出来ず山麓に陣屋を構えた。

 元和2年に2代通春は姓を久留島氏に改めている。明暦元年に通春が没し、3代通清が家督を相続した時に二人の弟、通貞に1,000石と通迥に500石とそれぞれ分知して以降、森藩は12,500石となっている。

 文政7年から天保8年にかけて、8代久留島通嘉は三島神社の改築との名目で陣屋・神社を現在も残る城郭風に改築した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR久大本線豊後森駅〜バス/伏原
 車 : 大分道玖珠IC〜国道387号線〜町道
駐車場: 三島公園の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
岡にあがった村上水軍の末裔が築いた陣屋。
  • 大山積神社 大分県速見郡日出町豊岡3703

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